私がどうしても一杯だけ食べたいラーメンを選べと言われたら
葛飾区亀有にある東京ラーメンというお店を選びます。
私にとってはおいしいラーメンでありますし、
3歳から食べ親しんでいるラーメンだからかもしれません。
しかし、このラーメンはもう、2度食べられなくなりました。
山岳事故だったそうです
昨年のちょうど今頃、お店のシャッターに
張り紙を見つけました。
車で一度、通り過ぎたのですが、
張り紙が貼ってあるのはめずらしいことです。
なんか臨時休業か何かの案内かなと思いつつ、
車を降りて引き返してみました。
すると親父さんが山岳事故で亡くなり、
閉店するということが書かれていました。
あのときの感情をなんと表現すればいいでしょうか?
身内ではないですし、ちょっと長い期間通っている客なだけなのですが、
いろんな想いがかけめぐりました。
今のラーメンの基礎を築いた方でした
数十年前、一度、東京ラーメンはへハンバーガー屋さんに
転身しました。
夜の営業だったのでお子さんのことを考えて
昼間の仕事へ変えたのです。
その閉店する前の3日間。連続で食べに行ったのを覚えています。
あー、この味が食べられなくなる。
今でこそ、チャーシューがとろとろだったり
ラーメンに脂っこかったり、インパクトの強いものが
ありますが、40年前はそんなものはありませんでした。
東京ラーメンは40年前から今のチャーシューでした。
味もまた今ではさっぱりしている部類に入ってしまいますが、
当時は逆でした。
ラーメンの開拓者だった、そういっても過言ではないと思います。
屋台のラーメン屋でした
40年前は屋台のラーメン屋でした。
ワゴン車を改造し、蔵前通り沿いのちょっとした空きスペース
お店をだしていました。
その時から人気がありましたね。
タクシーの運転手さんに聞いても
東京ラーメンは1位か、2位だと言う方が多くいました。
気まぐれな親父さんで10時開店でも
10時に来ているとみんなに
「おー、今日はちゃんときてるじゃない」と言われる人でした。
それは店を構えてからも変わらず、
8時開店で8時に開いたことをあまり見たことがありません。
しかもちょこちょこ休む。
仕儀とがあまり好きじゃないと言っていたこともありますね。
屋台のときはメニューも
ラーメンに、チャーシューメン、わかめラーメンにメンマラーメンと
ラーメンにトッピングを増やすメニューだけでした。
当時は10時開店でしたので
いくのは決まって土曜日の夜。
7時くらいに軽く食べて、10時に合わせて
家族ででかけました。
錦部家にとっては、楽しみにしていた外食でした。
車の中にクーラーボックスを置いて食べていたのを思い出します。
それが小学生になると認められたように
屋台のカウンターで食べるようになりました。
私はいつもチャーチューメン。
小学生までは長ネギ抜き。
長ネギが食べられなかったんですね。
でも、ある日、親父さんに長ネギ食べないと
おっきくなれないぞ、と言われ初めて長ネギを食べたのが
東京ラーメンでした。
息子さんが継ぎました
5年前くらいでしょうか。
お店に親父さんの他に若い人が入っていました。
聞くと息子さんだということ。
しかし、次に行ってみると息子さんの姿がありませんでした。
「いろいろと考えが違うんでやめちゃったよ」と
言ってました。少しさびしげでしたね。
私もこのときはすでにこの世界に入っていたので
親子で働く難しさはよく分かりました。
その息子さんがあとを継いでいると聞いて
昨日、親父さんが亡くなってからはじめて家族4人で行ってきました。
私の次男は初の東京ラーメンです。
味が親父さんの味と同じで涙が出そうになりました。
息子さんがどういう想いで店を継いだのか。
その横で親父さんのときと同じように
おかみさんが具をのせていきます。
親父さんは私が食べ盛りのときはチャーシュー麺を頼むのに
さらに麺の中にチャーシューを一枚忍ばせてくれました。
昨日、おばさんは、二人の子供のために一杯頼んだラーメンに
シャーシューと海苔とメンマを二人分、のせてくれました。
おばさんとは親父さんの話はしませんでした。
しかし、話さないことで自然と私が知っていると
おかみさんも分ったようで、
他愛もない話をしながら、その会話の間、間で
無言の中でお互いに親父さんへの思いを語ったような気がしました。
そしてラーメンを食べながら、親父さんの気持ちが伝わってくるようでした。
息子さんのラーメンを自慢しているようであり、
まだ、足りないだろと言っているようでもあり、
もう息子のラーメンなんだから好きにやればいいと言っているようでもあり、
そして、息子さんの親父さんへの思いも見られました。
麺の湯切りが親父さんのやり方です。
籠のようなものではなく、平らな柄のついたざるで湯切りをしていました。